胡乱な世界で、それでも
確かなもの
050:これが永遠に続けばいいねと笑う君こそが、永遠を信じていなかった
港湾部や繁華街に近いほど家賃は安い。治安が悪いからである。それでも写真館を畳んでから葵と葛は少し奥まった界隈へ居を構えた。二人が離れていた時間は長く短い。その間葛はずっと悔恨と悲嘆と毀れない自分に倦んでいた。葵の位牌さえ作ってもらって陰膳を備え、毎日仏壇の前で祈った。そこへ葵は実体を伴って戻ってくるなりなし崩し的に居着いてしまった。もともと二人が知り合ったきっかけは所属していた今はもうない組織の上層部の意図によるものだ。その組織は崩壊して消えた以上、葵と葛がともにいる理由はない。それでも葵は葛と寝食を共にすることを望んだし、葛も受け入れた。
銀木星がほのかに香る。金雀枝の匂いもした。葵はほとんど母親と二人きりで暮らしていたから多少花に関しての知識はある。片親だった理由は簡単なもので、葵がご落胤であるからに他ならない。誰の種だか葵は一度だけ母親に問うたが答えてはもらえなかった。私が好きな人なの。それじゃあだめかしら。秘されていた方がよいものも事もあるのだとその時知った。父親の顔や素性などもう今となってはどうでもいいし、葛が拵える料理の献立の方が葵には重要だ。葛は写真館での同居中の記憶を失くしてはおらず、葵の嫌いなものまで容赦なく献立に入れる。嫌いだよ、好き嫌いをするな、食えない、ならば別室へ床を取ろうか。葛もやや下卑たような揶揄を返せるほど柔軟になっていた。結局は葵が折れて苦い顔で食す。葛に好き嫌いはないのか献立をいちいちしっかり咀嚼して消化していく。その光景はちょっとした名家の一場面の様だ。箸使いが綺麗なのである。露ものの椀を持つときの箸の向きや小皿へ取り分ける箸先。たぶん小豆も箸で掴めるな、と葵は思う。葵は洋風の食事が主であった時期もあったから箸使いは上手くない。作法として母親に教えられたことは覚えているがともすれば礼儀知らずもやらかす。葛はそのたびに物静かな玲瓏とした声でそれを指摘する。その時の玲瓏とした声は鈴を鳴らしたように耳の奥底にまで沁みいる綺麗な声で、葵はそれを聞くのが好きだ。
一定期間であったとはいえ、触ることはおろか声さえ聞けなかった。再会の直後から数日間は葵は立ち上がることを覚えた赤ん坊よろしく葛の後をついて回った。葛も邪険にしなかったのでなんとなく二人で連れ立つ日も増えた。本業であった裏稼業はまったく途絶えてしまったから、二人はそれぞれ内職や日雇いで日銭を稼いだ。葵は体を動かすことが好きであるから港湾部へ出かけては人足となって船荷の積み下ろしや仕分けの仕事についた。字が綺麗で見目麗しい葛は交渉の代理人として呼ばれたり、手紙の代筆や清書などを請け負う。葛は字も上手い。水際立った筆でさらさらと躊躇なくペンを走らせる。時には毛筆の時もあるがそれさえも簡単にこなしてしまう。
「葵、食事だ」
縁側で茫洋と庭を眺めて思いにふけっていた葵は目が覚めたように目を瞬かせてから食卓についた。いつも通り野菜や魚が中心の和食だ。時折中華も作るが調理を担当する葛の得手は和食であるらしく、惣菜は自然と和物に偏った。煮物を咀嚼しながら次を狙い定める葵に葛が何でもないように言った。
「今日は代筆を請け負っているから部屋には来るなよ」
葛は仕事に対する責任をわきまえていて、自分が集中できる環境さえも自分で整える。葵も慣れたものでそうかい、と返事をしてから口の中のものを呑みこんだ。
「ちょうどいいよ。オレも今日は上海便の積み下ろしに混じることになってるからさ。帰りが遅くなったら先に風呂とか食事とか済ませてていいぜ」
「……帰っては、くるのだな?」
「もちろん。葛ちゃん一人になんかしないよ。こんな幸せな生活、オレが手放すわけないだろ?」
ニィーと歯を見せて笑うと葛は行儀が悪いと叱りつける。それでもどこか葛の口元は微笑んでいて葵はそれがひどく嬉しいし好きだ。
裏稼業についていた頃にはなかった習慣が二人に生まれた。それは二人が別離していたからこそ生まれたものでどうにも解消のしようもなく妥協した結果だ。何処へ出かけるの、何の仕事、いつ帰ってくるの。同居人としてそのくらいのことを訊くのは当たり前なのに秘密主義であった裏稼業に従事していた頃にはなかった習慣だ。だから葛はまだ遠慮がちに葵へ訊ねる。葵の方に気負いはないし、その裏稼業に従事していた頃から葵は葛に気さくにどこ行くの、などと訊ねていたから違和感もなにもない。ただ葛がひどく不慣れに、訊いてくる。言い淀むとすぐに言えないならばいいと電光石火の速さで問いを引っ込めてしまう。それでも知りたい様はうろうろ泳ぐ指先や視線から知れるから葵は葛に対して以前よりあけっぴろげだ。オレがオレを明かすだけで愛し人が安心できるって言うなら喜んで腹を晒す。葵の中でそうしたことにためらいはない。
「…幸せだよね」
葵が代筆の仕事の準備に廊下や縁側を行き交う葛を眺めながら呟いた。葛は万年筆や毛筆を携えて、何がだ、と問うた。
「こうして二人で暮らせていることが。あの飛行機の中でオレはもうこれで終わると思ったよ。でも今こうして大好きな葛と一緒にご飯を食べたり仕事をしたり、閨にまで付き合ってくれてさ。一生分の運を使い果たしたんじゃないだろうなって思うよ。今がとっても幸せで完成形で、だからこそ崩壊したらって思うとすごく怖いよ。永遠に続いてくれないかなって思うんだ。あはは、葛ちゃんは嫌?」
真剣な顔をすると葵は男くさいなりに精悍な顔つきになる。男前なのだ。頤などの線は細いくせに気概として一人前の男である。葛は葵の容貌に魅了されなかったと言えばそれが嘘であることを知っている。この戦うことしか知らない体を愛しんで抱いてくれる葵は強い雄だ。乳白の肌理細かい皮膚を少し赤らめて葛はプイとそっぽを向いた。
「幸せが毀れる前提の話をするな。人でなしはその手の話をする者のところへ集うという。だからそれ以上は言うな。俺はお前と別れてやる気はない…別れたく、ない」
だからこうして不慣れな内職や日雇いをこなすのだ。二人で暮らすとなれば金も物も入り用だ。葛は高潔な実家へ戻らなかった。乾期と雨期を繰り返すこの大陸へ残った理由は別離した葵が生きているとどこかで信じて未練がましくしがみついていたからだ。そして葵は帰ってきてくれた。葛にとってそれ以上の喜びはなくて、だからこそ壊すわけにはいかない。泥水すすってでも葛は葵とともにありたかった。
「幸せや幸福と言った感情を抱く状況を作るのは人だ。病は気からとも言う。人が作るこの状況を、楽しめばいい」
葵はぽかんとした顔で葛を見ていたがすぐに噴き出して腹を抱えて笑った。
「違いない! 何が幸せでどうするのかを決めるのはオレ達だよな? そうだよ、自分の状況を作ってんのは自分しかいない。葛ちゃんありがと大好き愛してる!」
葛は何食わぬ顔で自室へこもろうとする。写真館を経営している時もそうだったが葛は集中したいときに周りで騒がされるのを嫌うのだ。
葵の手と足が畳を蹴って葛を抱き寄せた。後ろからの抱擁に葛の肩がびくんと跳ねる。それでも持っている道具は落とさない。葛の側に予測があった証拠だ。だから葵は心情を吐露できる。葛は相手の負担を減らすために何手先をも読む。それが葛なりの気遣いであることと手加減であることを葵は知っている。
「ありがとう。本当に嬉しいんだ。大好きだよ。オレのこと、待っててくれて、信じてくれて、本当に本当にありがとう」
今度はオレが、葛を守るから。大事にするから。葛の白いうなじへ唇を寄せる。釦を一番上まで留める葛であれば襟で隠れる位置だ。唇を寄せる葵を葛は歓迎しないが邪険にもしない。ただ受け入れている。愛情の押し付け合いや感情の押し売りには二人とも食傷気味だ。クックッと葵が笑う。その振動が葛の頸骨を伝わってくる。葵の笑いの意味は葛には判らない。それでいいのだと葛は知っている。腹を晒す手加減や塩梅は付き合いの持続に案外重要だ。内側を晒しすぎると相手に対して重荷になりかねない。それでも葛は葵がいなくなった時、何もかも振り捨て振り乱れるようにして葵を探し、未練がましくしがみついた。だがその結果として葵と再会を果たせたのだから良かったと思っている。もっとも葵がいない間葛の頭を離れなかった懸念はある。葵の方で葛を避ける可能性だ。双方共に気があって同居していたわけではないからこの別離を気に縁を切られることも覚悟した。だが葵は葛のところへ帰って来た。葛にはそれが幸せの絶頂のように思えた。だからこそ落ちて行く落差が怖い。葵が葛との同居に飽きて出て行くといつ言いだすか知れない。葛はいつもそんな恐怖と闘っている。葵も同様であると感じ取れて嬉しいような悲しいような切ないような気がして、葛は返事はせずにその黒曜石を潤ませた。
目の前で掻き抱く葵の腕が見える。上着ごと袖をまくる葵の服装は変わりない。仕事に出かける際には人足らしい格好で行く。
「…支度をした方がいいじゃないのか」
葵の腕に力がこもる。葛の胸部や頸部が少し圧迫されて息苦しい。それだけじゃない。葵を突き放すような言葉を吐くたびに葛は後悔と痛みに泣いている。この一言がきっかけで二人の関係が毀れるかもしれないと思うだけで気が狂いそうだ。
「もうちょっと抱かせてよ。葛ちゃん。それとも葛ちゃんの日程に影響出ちゃうかな。上海便はよく遅れるから多少の遅刻は多めに見てもらえるからオレは大丈夫だよ。それとも、葛ちゃんが、嫌?」
葛は葵から見えないと判っていても顔が赤らむのを止められない。耳まで火照るように紅い。発熱しているかのようである。だから葵には葛が恥じらっているのが判る。くす、と吐息交じりの笑みがあふれた。
こうして二人で抱きあって。寝食をともにして。時折寝台を共有する。平和だった。自分たちで勝ち取った平和だ。誰かにやすやすと毀されてなるものかと葵は思う。葛は美貌のわりに自己評価が低いから特に要注意だ。路地裏をうろつけば葛に目をつけるならずものが多少いる。小奇麗で崇高で、綺麗で。穢したいというくらい欲望の標的になりかねない。だから葵は自らそういった界隈や港湾部へ仕事を探しに行って葛へ回さない。考え方は葵の方が柔軟であるから臨機応変に対応できる。生まれもった特殊な能力の使用に躊躇もない。葛はこの生まれもった特殊な能力を嫌うが葵は使えるものは使う主義だ。使えるのに使わないなど論外だ。持っている意味がない。
「葛、能力のこと、忘れないよな」
葛の体が緊張する。衣服越しに葛の背筋や肩甲骨の湾曲に緊張が走るのが判った。
「オレは使うことに罪悪感なんてない。だから、葛を守るためならなりふり構わないよ。能力も、使う。葛はどうする?」
「……仲間の命と天秤に掛けたりはしないと言ったはずだが。まして、葵、は」
天秤にかけるという前提さえ覆る。葛は玲瓏とそういった。声は冷静だが内容はまともじゃない。葛もそれを自覚しているからますます耳が紅くなる。
「ありがとう、大好き。本当にこの暮らしがずっとずっと、永遠に続いたらいいね」
「思ってもいないことを言うな」
葛の言葉が冷たい。もともと葵はどちらかと言えば場当たり的に戦闘や作戦をこなす性質である。その性質が永遠に続くなどと口にするのはお門違いだ。
「信じていないだろう。だからすがるんだ。だからこそ安寧とした現在にお前はすがっている。この暮らしが永遠でないことを知っているから」
葛の側にも葵を突き放す痛みを伴っている。この発言と意見の相違で葵が家を出るといっても仕方ないと葛は覚悟した。それでもそれは葛の本音だった。建前を抜きにした意見を述べること自体、葛が心赦した証に他ならない。葵の側にもそれは知れていて。だから。
「だったらさ」
葵の声がくすりと笑う。葵は窮地に立たされてもなお笑うことのできる人種だ。
「だったら葛ちゃんが、オレが忘れることなんかないように手放すことなんか終わることなんか、ないように。きつくきつく締め付けてよ。刻みこんでよ」
「葛のくれるものなら命を断つ刃でもオレは受けるよ」
永遠を信じるほど幼くない。すぐに終わると悲観的でもない。葛は永遠を信じながらそれがいつか終わると思っていたのは己であったと自覚した。双方共に切れることを前提としていた。思慕や恋情で出会えていたならどんなにか良かったろう。二人の最初の接点は格闘とナイフと違法行為と戦闘と船上だ。互いの能力を試される形で顔合わせした。こんな胡乱な世界で、それでも葵は葛とのつながりを信じて愛してくれた。
「葵…俺をめちゃくちゃにしてほしい。お前を忘れることが金輪際ないくらい。お前を刻んでほしい。おまえの証を俺の体に残してほしい。そのくらいには俺がお前を、好き、だから…」
万年筆や毛筆がからからと床に散らかった。葵が葛を仰臥させる。襟の釦を一番上まで留めている。葵はくすりと笑ってそれを解いた。
「そう言う葛も大好きだよ。永遠に忘れられないくらい、オレを感じさせてあげる」
葵の温くぬめる舌先が釦を外してあらわになる首筋や胸部を這った。葛は葵の手腕に腰を跳ね上げ背をしならせ四肢を突っ張らせて嬌声を堪えた。それでも葵は優しく葛を抱いた。熱が行き交うような気がした。葵の熱がなだれ込む。同時に葛の熱情が触れ合う場所からとろける流動体のように葵を犯した。互いの体温をじかに感じる。
「愛してる」
双方からいつともなくこぼれた言葉だった。葵は嘘つき猫の笑い顔で泣き、葛が涙をあふれさせながら口角を吊り上げて笑んだ。
幸せになっていい理由がないと双方共に承知していた。だからこそ余計に。
永久に君を。愛する。永遠に愛し続けたいという希望。幻でもよかった。ただ君に触れていることがその時が至福であったから。だから、せめて君にこの言葉を。
「ありがとう」
《了》